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アンビリバボー 武辺寛則 ガーナを救った日本人 [テレビ]

今度のアンビリーバボーで武辺寛則(たけべひろのり)氏が取り上げられているそうだ。



以前別なTV番組でも取り上げられていた武辺氏、日本では知らない人も多いが、ガーナではあの野口英世よりも有名な日本人として現地で語り継がれている人物である。



一体どのような人物であるのか調べてみた。



 





出典


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武辺寛則氏の経歴(プロフィール)



長崎県出身。



大学を卒業後に一度は商社へ就職するも、1986年(昭和61年)25歳の時に退社。



子供の頃からの夢だった海外での仕事に就くために青年海外協力隊の道へ進む。



1986年12月、ガーナの首都アクラから西に120km離れた、アチュワ村に三代目の村落開発普及員として派遣された。



彼が命じられたその村での役割は、自給自足で貧困、干ばつに苦しむ村人達の生活レベルを上げるというものだった。



 



まず武辺氏が取り組んだのは養鶏。



始めは日本から来た若者にアチュワ村の人達は警戒し、全く信用をしてもらえなかった。



それでも村のことを第一に思う活動に次第に現地の村人からも信頼を得るようになる。



 



そして、長期的にアチュワ村の収入を向上させる為に、少ないながらももともとパイナップルの栽培をしていたこともあり、パイナップルファームを拡大するプロジェクトを立ち上げる。



そしてアチュワ村パイナップル協会を設立し現地住民の栽培希望者を集めたが、当時村ではそういった習慣がなかった為、反対の意見も多く出たようだ。



だが彼は一切文句も愚痴もいわず率先して畑を切り開いた。



1年間に3回もマラリアに感染して生死の境をさまよったが生還すれば畑を耕す日々を送った。



そんな彼を見て村人達は次第に心を動かされるようになり、自ら手伝うようになった。




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パイナップル栽培に尽力した武辺氏は、村のまとめ役の「ナナ・シピ」という役職の就任を要請されることになる。



一度は断るものの、村の長老に説得され、1988年9月24日のアチュワ村収穫祭の日に、武辺さんは伝統衣装と装身具を身にまとい、アチュワ村のナナ・シピに就任したのだった。



上の写真はその時の様子である。



 



だが、悲劇が起こる。



念願の収穫まで半年を切ったある日、急病の村人を病院まで運ぶようお願いをされた。



そして、舗装もされていない道を病院まで急スピードで走っていたところ横転。



すぐに病院へ搬送されたものの27歳で息を引き取った。



 



その後、武辺氏の残したパイナップル栽培は定着し、今ではヨーロッパなどへも輸出するほどになっている。



村の中心部には、「タケベガーデン」と名付けられた公園が村人達によって作られ、パイナップルの形をした慰霊碑も立っているとか。



 



武辺氏の死後、彼の両親は、武辺氏が残していた遺書に従い、葬儀で寄せられた弔慰金を子どもの教育に使ってほしいと、アチュワ村の保育所建設のために寄付した。



そして現在でも、定期的にこのアチュワ村を訪問しているそうだ。



アチュワ村では、この村の発展の立役者である武辺さんのご両親を毎回歓迎し、生まれてくる村の子どもたちにも武辺さんのことを今でも語り継いでいる。





2010年3月、ガーナをご訪問された皇太子殿下は、首都アクラ市にある青年海外協力隊の慰霊碑へご供花された。



滞在中、ガーナのアチュワ村産のパイナップルを召し上がり、「大変おいしかった」と感想を述べられた。



 



たった一人の日本人が



しかも若干20代の日本人がひとつの国を救った。



日本人として誇りに思う。



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